#今日は何の日?#力道山#北村西望#吉田廣一#平和祈念像#徳島県立穴吹高校#昭和30年(1955年)の出来事#重量挙げ#長崎
【今日は何の日?】8月8日=長崎の平和祈念像が完成する(1955年) / 雑学ネタ帳

長崎の平和祈念像
67年前の1955(昭和30)年。彫刻家・北村西望(きたむら・せいぼう)さん作による長崎の平和祈念像が完成。天に向けて垂直に掲げられた右手は原爆の脅威を、水平に伸ばされた左手は平和を、横に向けた右足は原爆投下直後の長崎市の静けさを、立てた左足は救った命を表し、軽く閉じられた目は戦争犠牲者の冥福を祈るものとされています。
制作費3,000万円はすべて国内外からの募金によって、台座の2,000万円は長崎市の予算によって賄われています。
翌年に劇場公開された映画『サザエさんの婚約旅行』(東宝配給)では、サザエ(江利チエミさん)、マスオ(小泉博さん)とともに長崎を訪れたカツオ君(白田肇さん)が、イタズラ半分に土足のまま祈念像によじ登り、同じポーズを取っていたところ、バチが当たり、身体がこのポーズのまま固まってしまうなんてエピソードもありました。
さて、筋骨隆々の祈念像ですが、修学旅行などでもガイドさんから「当時大人気だったプロレスラーの力道山がモデル」と説明されてきましたが、表情こそ似ているものの、力道山の筋骨隆々ぶりとは、ややタイプが異なります。実際のモデルは54(昭和29)年、フィリピン・マニラで開催されたアジア大会で日本選手団の旗手を務めた重量挙げ選手・吉田廣一(よしだ・ひろいち)さんと伝えられています。吉田さんはこの時代の日本人としては珍しく、身長184cm、体重85kgの大型で、しかも体脂肪の少ない見事な肉体を誇っていました。
戦時中、第55師団所属の陸軍大尉としてニューギニアやビルマ戦線に出征した吉田さんは、飢えとマラリアに苦しむニューギニア戦線で、衰弱した戦友を背負うようにして30kmもの退路を撤退したり、終戦が告げられた後、日本へと帰還する最後の飛行機(6人乗り)の座席を、身重の若い女性に譲ってしまい、自らはそのまま現地で生き抜き、約1年後の46年にサイゴンからの船便で帰国したなど、数々の豪傑エピソードの持ち主です。
復員後は徳島県立高校の教諭であると同時に重量挙げ選手として活躍。50(昭和25)年から6年連続で重量挙げの全日本ライトヘビー級王者となる一方、徳島県立穴吹高校に重量挙げ部、レスリング部、柔道部を立ち上げ、全部まとめた「武道部」として数々の選手を育成。のちに日本体育大学を最強のレスリング王国へと育て上げた藤本英男さん(日体大レスリング部元監督=メキシコ五輪銀メダリスト)は、穴吹高校時代の吉田さんの教え子となります。
そんな吉田さんは67年に不慮の事故で48歳の若さで急逝。しかし、それら数々の偉業や武勇伝は現在も地元・徳島を中心に語り継がれています。
参照 : 読売新聞オンライン
文 / 高木圭介
SNSシェア
介護のみらいラボ編集部コメント
高齢者や同僚との話題が浮かばないときにすぐ使える、ウケる、会話が自然と広がる、雑学ネタや豆知識が盛りだくさん!コミュニケーションの活性化にお役立てください。