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【今日は何の日?】1月30日=読売ジャイアンツの新戦力・トマソンが来日(1981年)/ 雑学ネタ帳

《画像はイメージです》
43年前の1981(昭和56)年。プロ野球、読売ジャイアンツ(当時、藤田元司監督)期待の新外国人選手として、前年まで米ロサンゼルス・ドジャースで活躍していたゲーリー・トマソン選手が待望の来日を果たしました。
トマソン選手は185cm、82kgで左投げ左打ち。強肩と強打で活躍しており、前年秋の王貞治選手引退によって大きな穴が空いてしまった巨人打線の補強策として、トマソン獲得に乗り出し、成功した形です。
夕方5時。濃紺のスーツにネクタイ姿で成田空港に到着したトマソン選手は、報道陣からのフラッシュに堂々たるVサインで応えつつ「日本への引っ越し準備のため、満足なトレーニングはできなかったが、コンデイションは上々だ。早く日本の野球に慣れたい」「調整ミスさえなければ、かなり活躍できると思う。セールスポイントはスピード、強肩、若さだ」と自信たっぷりにコメント。若き大物メジャーリーガーのは大きな期待が集まりました。
2月1日にはキャンプ中である宮崎に入り、巨人ナインと合流。背番号12をつけたトマソン選手は"世界の王"に代わる4番打者として注目を集めました。
ところが......。いざ開幕すると、なかなか成績が上がりません。もちろん実力不足などではなく、明らかに日本の野球に慣れないまま...といった感じです。シーズンが終わってみると、ホームラン20本、打率は261とまあ良好なのですが、三振数が132と圧倒的だったのです。しかもメジャー仕込みの豪快なフルスイングで空振りを繰り返す姿が印象的だったため、メディアなどでも「舶来大型扇風機」「トマ損」などと揶揄される始末です。
2年目にはさらに成績も試合出場数も落ち込み、ついには82年限りで解雇。トマソン選手は寂しく米国へと帰っていきました。
しかし「トマソン」の名は意外な所で日本に残りました。前衛芸術家であり作家でもある赤瀬川原平さんらが、建築物など、そこに存在、保存はされているものの、何の役にも立っていない無用の長物をトマソン選手にちなんで「超芸術トマソン」と命名。以降、トマソンとはその手のモノを指す言葉として日本国内で生き続けています。
参照 : 昭和56年1月31日付の読売新聞朝刊
文 / 高木圭介
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介護のみらいラボ編集部コメント
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