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【今日は何の日?】10月15日=アントニオ猪木が初勝利を飾る(1960年) / 雑学ネタ帳

《画像はイメージです》
62年前の1960(昭和35)年。先日(10月1日)亡くなられた"燃える闘魂"アントニオ猪木さんが、日本プロレスの北海道・札幌中島スポーツセンター(札幌市中島体育センター)大会の第2試合で、大先輩にあたる田中米太郎選手を相手に待望の初勝利を飾りました。
当時17歳の少年だった猪木さんは9月30日に東京・台東体育館大会でデビュー。のちに好敵手となる先輩・大木金太郎選手を相手に惨敗しました。10月14日、北海道シリーズの開幕戦となった札幌中島スポーツセンターにてミスター珍選手を相手にデビュー2戦目を行い15分時間切れ引き分け。デビュー3戦目のこの日、11分36秒 首固めで初勝利を飾りました。
田中米太郎選手は、猪木さんと同日にデビューしているジャイアント馬場さん(当時22歳)の対戦相手でもありました(※馬場さんはデビュー戦で勝利)。のちに2人のライバル関係を盛り上げた、さまざまな物語において、馬場さんがエリート扱いされ、猪木さんが雑草のように鍛えられたとの記述が目立ちましたが、実際は猪木さんも将来を期待されていた、かなりのスター候補生であったことが分かります。馬場さんも猪木さんも、前座の第1試合をほぼ経験しないままスター街道を歩むことになります。
当時の猪木さんは、本名の猪木寛至とはまた違う「猪木完至」というリングネームで活動。「アントニオ~」となるのは2年後の62年11月からのことです。
猪木さんは横浜市鶴見区の出身。この年の4月、移民先のブラジルにて力道山にスカウトされ、日本に連れ帰ってこられてプロレスラーの道を歩み始めます。ところが師匠の力道山が「ブラジル生まれの日系2世」とマスコミ発表してしまったことから、公の場で日本語を話すことが禁じられ、会場に親戚や友人が訪ねてきても、たどたどしい日本語で応対し、友人や親せきに怪訝な顔をされてしまうなど苦心したそうです。
猪木さんが堂々と「横浜市出身の日本人」とカミングアウトできたのは、力道山が死去(63年12月)してからのこと。プロレス界に限ったことではありませんが、それほど当時の師弟関係は厳しかったとのことです。
文 / 高木圭介
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