#テレビ中継#バックドロップ#ルー・テーズ#三菱電機#今日は何の日?#力道山#後楽園スタジアム#日本テレビ#昭和32年(1957年)の出来事#浜松市#鉄人#雨天延期
【今日は何の日?】10月7日=力道山が世界王者のルー・テーズと引き分ける(1957年)/ 雑学ネタ帳

《画像はイメージです》
66年前の1957(昭和32)年。この日の夜、東京・後楽園スタジアムで開催されたプロ・レスリング興行で、アジア王者、日本王者の力道山が、鉄人と謳われた現役NWA世界ヘビー級王者、ルー・テーズと61分(当時のプロレスは61分3本勝負が主流)を時間切れまで戦い抜き、引き分けました。
日本で本格的なプロレス興行がスタート(53年)して5年。会場の規模も、招聘選手もまさに「世紀の一戦」に相応しい大一番でした。後楽園スタジアムには2万8,000~3万人もの大観衆が押し寄せたそうです。
この大一番、当初は興行ポスターなどにも「テレビ中継なし」と記されていましたが、ギリギリのタイミングまでテレビ局(日本テレビ)や中継のスポンサー(三菱電機)が交渉し、急転直下でテレビ中継が決定します。以降、72(昭和47)年まで日本プロレス協会と日本テレビ、三菱電機の蜜月関係が続いたのも、この世紀の一戦の成功が関係していると思われます。
試合は当初、10月6日(日曜)に予定されていましたが、この日はあいにくの雨...。試合は翌10月7日に延期されました。ところが、急きょ決定したテレビ中継だったため、雨天延期のケースまで想定されていいなかった模様で、当日の朝刊テレビ欄には、午後8時から「プロレス中継」の文字はなく、古川ロッパさんの喜劇、午後8時30分からは朝丘雪路さん、宇津井健さん、高杉早苗さん(先日亡くなった二代目市川猿翁さん、四代目市川段四郎さんの母)らが出演するドラマ『すいれん夫人とバラ娘』の放送が記されていました。
当日昼までの粘りで、急きょ番組が変更され、「プロレス中継」の放送が決定。夕刊テレビ欄には「プロレス中継」の文字が記されています。当時は視聴率調査機関が存在しなかったため、公式記録とはなっていませんが、電通の調査によりますと、この中継は87%もの視聴率を記録していたとか。まさにプロレス黎明期最大のビッグマッチだったと言えます。
力道山は6年後(63年)に39歳で死去しましたが、この試合時に41歳だったテーズは以降も長く現役を続け、ジャイアント馬場さんやアントニオ猪木さんら歴代の日本のトップ選手と名勝負を繰り広げ、90(平成2)年12月には、なんと74歳にして弟子にあたる蝶野正洋選手と一騎打ち。この試合を最後に現役引退し、2002年に86歳で死去しています。
力道山もテーズも、ともに生涯ラストマッチ(力道山は浜松市体育館、テーズは浜松アリーナ)の舞台が、日本の地方都市である浜松(静岡県)だったというのも奇縁ですね。
参照 : 昭和32年10月8日付の朝日新聞、毎日新聞朝刊
日本プロレス70年史(ベースボール・マガジン社)
文 / 高木圭介
SNSシェア
介護のみらいラボ編集部コメント
高齢者や同僚との話題が浮かばないときにすぐ使える、ウケる、会話が自然と広がる、雑学ネタや豆知識が盛りだくさん!コミュニケーションの活性化にお役立てください。