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【今日は何の日?】11月13日=元阪急の"野球博士"スペンサーが寂しく帰国(1972年)/ 雑学ネタ帳
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51年前の1972(昭和47)年。10月末にプロ野球パ・リーグの阪急ブレーブス(現オリックス・バファローズ)を退団したダリル・スペンサー選手(当時44歳)が寂しく米国へと帰国しました。
米メジャーリーグで活躍後の64(昭和39)年に来日し、阪急に入団したスペンサー選手は、その豪打だけでなく、頭脳プレーや相手選手の癖などを徹底的に研究する戦術面でも大いに当時のプロ野球に影響を与え、「野球博士」と異名されるほどでした。
打率231、18本塁打に終わった68(昭和43)年シーズン後に阪急を退団して米国へと戻り、レストラン経営や株式投資などで生活していましたが、株で大失敗してしまい、次なる職業を探していたところ、古巣の阪急から声をかけられ、71(昭和46)年シーズンより、選手兼コーチとして再び日本に帰ってきました。
しかし40歳を過ぎ、約2年のブランクが空いたスペンサー選手に、往年の迫力はなく、ついに2度目の退団となったのでした。阪急退団が決定後もスペンサー選手は「日本でもっと野球を続けたい」と希望し、約2週間ほど帰国を遅らせつつ、近鉄バファローズ、東映フライヤーズ、ロッテオリオンズ、大洋ホエールズなどに売り込みをかけていましたが、いずれも折り合いがつかず、日本での現役続行を断念しての寂しい帰国となったのです。
ところが、日本でのプレーをあきらめたスペンサー選手が、長年お世話になった阪急に置き土産として残していった「スペンサー・メモ」が大きな波紋を呼ぶことになります。そこには各球団の投手の癖や対戦相手のデータが緻密に記されており、これが昭和50年代前半に無敵の強さを誇る阪急に、大いに役立つことになったのです。
帰国後に改めて「野球博士」ぶりが見直されることとなったスペンサー選手は、故郷のカンザス州へと戻り、そこでNBL球団ブロンコスの監督に就任。同球団をワールドシリーズ制覇に導くなど、名伯楽ぶりを発揮し、2017年1月に88歳で死去しました。
昭和40年代の野球ファンならば、誰もが知るスペンサー選手ですが、劇画やアニメでおなじみの『巨人の星』でも、主人公・星飛雄馬の大リーグボール1号をピンチへと追い込む印象的なシーンが描かれていたことから、かなり下の世代にまで知名度が高かったりもします。
余談となりますが、長年にわたり秋のドラフト会議の司会者としておなじみだった伊東一雄さん(パンチョ伊東=当時はパ・リーグ職員)を「パンチョ」とあだ名した張本人が、このスペンサー選手だったそうです。
参照 : 昭和47年11月14日付の読売新聞朝刊
文 / 高木圭介
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