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【今日は何の日?】1月6日=熊谷組が工藤公康投手(愛知・名電高)獲得競争から離脱(1982年)/ 雑学ネタ帳
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42年前の1982(昭和57)年。前年のドラフト会議の目玉選手とされ、進路に注目が集まっていた愛知・名古屋電気高校(現・愛知工業大学明電高校)の工藤公康投手(当時18歳)のプロ、アマ合わせた壮絶な獲得競争から社会人野球の強豪・熊谷組が撤退を宣言。工藤投手の西武ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)入団が事実上確定しました。
前年夏の甲子園大会でも大活躍した工藤投手は、準決勝で投げ合った報徳学園の金村義明投手、同じく愛知県の大附高の槇原寛己投手と並び、前年ドラフトのビッグスリーと称されていました。
11月のドラフト会議後、槇原投手は読売ジャイアンツに、金村投手は近鉄バファローズ(現・オリックスバファローズ)への入団が決まり、12月末となり、工藤投手の西武入りもいったん発表されましたが、すでに工藤投手に"内定"を出していた熊谷組からストップが入り、西武入団も白紙に戻されるなど、モメにモメていたのです。
ドラフト前、工藤投手にはプロ9球団から指名に向けた挨拶があり、アマの社会人野球からも熊谷組をはじめ、20数社から入社を依頼されていました。工藤投手はドラフト会議の4日前に「プロ入り拒否」を宣言しており、プロ各球団が交渉をあきらめていたところ、なんと西武のみが6位で指名。その水面下の動きに関して、さまざまな憶測を呼んでいました。
この日に会見を行った熊谷組の野球部長・大塚本夫専務は「入社するものと思っている」と前置きしつつ「熊谷組では毎年100人ほどの入社内定者が出るが、全員が入社するわけではない。その人の事情で入社しない人もいる。工藤君も早く自分の意思をはっきりさせてほしい。工藤君の意思を尊重して円満に解決したい」と発表。事実上、獲得競争からの撤退宣言といえました。
当の工藤投手は「今までは父さん(光義さん)に任せてきたけれど、野球をやるには西武に入るしかない。熊谷組には悪いことをしたと思う。一度、東京へ行って(熊谷組へ)あやまり、それから西武に入団したい」と語りました。
すったもんだの末、西武入団が決まった工藤投手の、その後の活躍は説明するまでもありません。個人の大記録だけでなく、82~2010年(西武~福岡ダイエー~巨人~横浜~西武)と28年の現役生活の中で、14度のリーグ優勝と11度の日本一を経験。福岡ソフトバンクホークスの監督時代(2015~21年)でも、3度のリーグ優勝、5度の日本一を達成するなど、「優勝請負人」としても知られています。熊谷組と西武が壮絶な獲得競争を繰り広げたのも納得だったといえます。
参照 : 昭和57年1月7日付の読売新聞朝刊
文 / 高木圭介
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