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【今日は何の日?】3月8日=冒険家・植村直己の捜索がついに打ち切られる(1984年)/ 雑学ネタ帳
《画像はイメージです》
ちょうど40年前の1984(昭和59)年。アラスカ・マッキンリー山(6,194m=写真)で消息を絶った冒険家・植村直己さん(当時43歳)の手がかりを求めていた明治大学山岳部OB隊がこの日、ベースキャンプに向けて下山を開始。事実上、植村さんの捜索が打ち切られました。
植村さんは自身の43歳バースデーとなる2月12日、マッキンリー山の冬季単独初登頂を果たしつつ、2月16日に姿を見せたのを最後に行方不明に...。21日が過ぎたこの日、明大隊の捜索打ち切りで、生存の可能性が断たれる形となりました。
2月26日、現地の国立公園救助隊が「ウエムラ絶望」を打ち出すと、明大隊がすぐに入山して捜索活動をスタート。植村さんの登山ルートを忠実にたどり、3月6日には5,200mの稜線(りょうせん=頂上から頂上とを結ぶ尾根のこと)上で、植村さんがアタック基地として掘っていたとみられる雪洞を発見。ところがこの中には食料のトナカイの肉をはじめ、装備類一式20点が残されており、植村さんが下山の際に、この雪洞へは戻っていないことが確認されました。
明大隊では「植村がアタック基地の雪洞を素通りして下山することはあり得ない」としており、植村さんが5,200m以上の地点で遭難した可能性が浮上。同隊では5,200m地点で発見した植村さんの装備類を持って無念の下山。一方、国立公園救助隊は4月以降に、明大隊とともに再び捜索を開始し、遺体発見に努めることを表明しました。
40年後の現在も植村さんは行方不明のまま。4月19日にはその偉業を称え、国民栄誉賞を受賞。植村さんの命日は最後に無線交信された2月13日と決まり、翌85(昭和60)年1月に板橋区役所で死亡届が受理されています。
偉大なる冒険家・植村さんが生きていたとしたら、今年で83歳となります。
参照 : 昭和59年3月9日付の読売新聞夕刊
文 / 高木圭介
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介護のみらいラボ編集部コメント
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