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【今日は何の日?】5月30日=宝塚一筋62年・天津乙女が死去(1980年)/ 雑学ネタ帳

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44年前の1980(昭和55)年。宝塚歌劇団で芸一筋に生き、日本舞踊でも傑出した地位を占めた天津乙女(あまつ・おとめ)さんが夜7時、急性心不全のため香雪記念病院(兵庫県西宮市)で死去しました。享年74。
本名は鳥居栄子さん。1905(明治38)年、東京・神田で生まれた天津さんは1918(大正7)年、宝塚初の東京公演(1918年)にて行われた生徒募集とともに入団。宝塚初の東京出身者となりました。これには当時、関西弁ばかりだったタカラジェンヌの話し方を東京風に近づけるため......という裏ミッションが秘められていたそうです。そんな天津さんは同年10月、弱冠12歳にして早くも初舞台を踏みます。
翌1919(大正8)年の正月公演『鞍馬天狗』で早くも主役の牛若丸に抜擢。かわいらしい顔立ちとパリパリの東京弁で人気を集め、以降は常に第一線級のスターとして宝塚とともに歴史を歩むことになります。
そんな天津さんの運命を変えたのは関東大震災(1924年)でした。震災に追われ、宝塚へと流れてきた六代目尾上菊五郎さん(当時39歳)と出会ったことで舞踊に開眼。藤間流名取のほか、若柳、花柳など日舞の6流派を身につけ、その腕前は"女菊五郎"とまで呼ばれるほどに。
その舞踊の腕前は、『モン・パリ』の大ヒット(1927年)をきっかけにレビュー時代が到来すると、華々しい宝塚の舞台で花開くこととなります。宝塚歌劇の演出家・白井鐵造さん(のちに理事長)のヨーロッパからの帰国第1作となった『パリゼット』(1930年)で、のちに宝塚歌劇を象徴する楽曲となった主題歌『すみれの花咲くころ』を歌ったのも、ダチョウの羽をつけて踊ったのも、天津さんが第1号でした。
また、大相撲の横綱・双葉山からプロポーズされるも、「芸の道」に生きるために断ったなんて秘めたるロマンスもあったそうです。
戦後の48(昭和23)年からは宝塚歌劇団の理事職も務めつつ、自らも舞台に立ち、後進の育成にあたるなど、まさに宝塚とともに歩んだ生涯でした。
参照 : 昭和55年5月31日付の毎日新聞朝刊
文 / 高木圭介
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