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【今日は何の日?】7月20日=勝新太郎が黒澤明監督『影武者』を降板させられる(1979年)/ 雑学ネタ帳
《画像はイメージです》
45年前の1979(昭和54)年。"世界のクロサワ"こと黒澤明監督(当時69歳)が9年ぶりにメガホンを取り、世界中から注目を集めていた東宝の時代劇大作映画『影武者』で、主人公の武田信玄とその影武者役を演じることになっていた俳優・勝新太郎さん(当時47歳)と黒澤監督が些細なことから対立し、ついに勝さんが正式に降板することが決まりました。
"黒澤天皇"とまで呼ばれる黒澤監督と、主演・勝さんの組み合わせは、ともに「超」がつく大物同士の遭遇だけに、キャスト決定時より関係者は冷や汗の連続だったとか。その衝突は早くもセットイン2日目の7月18日に起きてしまいました。
その原因は勝さんが当時、普及し始めたビデオカメラをセットに持ち込み、自身の演技を撮影し、チェックしようとしたことでした。午前9時ごろ、勝さんが「自分の演技をビデオに撮りたい」と申し出たところ、黒澤監督は「そんな必要はない」とピシャリ。一瞬のにらみ合いがあり、勝さんはセットの外へと出てしまいました。
東宝の関係者が慌てて迎えに行きましたが、気持ちがおさまらない勝さんはカツラを取り、衣装も脱いでしまいました。待ちぼうけとなった黒澤監督は「そんなら降りてもらうしかない」と言い出しており、もはや収拾不能です。
7月20日の午後、東宝の松岡功社長と田中友幸プロビューサーが都内ホテルで勝さんと会談し、勝さんサイドから「もう一度、出演させてほしい」と申し出がありましたが、これを拒否。正式に主役交代が決まったのでした。
午後6時すぎ、東宝撮影所で黒澤監督は「われわれは勝君が芝居やテレビの日程を消化して来てくれるのを待ち続けていた。やっと仕事を始めた早々、こんなことになったのは残念だ。勝君は"自分の芝居をビデオに撮ってみたい"と言った。しかしカメラと違う位置からビデオを撮っても意味がないし、たとえばビデオを見て考え込まれたりしたら困る。監督が2人いたら映画はできない。ギリギリの予算内で膨大な人や馬を使って製作撮影しているのだから、何か気に入らないからといって姿を消すような事が起こったら仕事はできない。だから降りてもらうことに決めた。勝君に含むところがあるわけではない」と語りました。
一方の勝さんも午後8時すぎから会見を行い「全世界が期待していた黒澤明監督の映画に出ることは、オレ自身、またとないチャンスと思い、取り組んだ。片思いだったかもしれないが、初日は実に良かったと思うし、その夜もショーケン(萩原健一さん=信玄の息子・武田勝頼役で出演)と影武者について語り合った。信玄は動物的に動けばいい役のはずだが、影武者は自分の作った信玄を真似する演技が要求される。ビデオという文明の利器があるから、鏡をちょっとのぞく気持ちで"使いたい"と申し出た。ところが"そんなもん見ないでくれ"という。説明をした。しかし、"気に入らないのか"と言われた。ここでちょっと顔を見ちゃったんだな。オレのほうがここで"すみません"と言えば良かったんだけど、"勝新太郎だぞ"と隣町のガキ大将みたいな顔をしたんだろうな」と沈んだ表情で語っていたそうです。
『影武者』は勝さんの代役として仲代達矢さんが武田信玄とその影武者役に起用され、撮影が進められ、翌80(昭和55)年4月に公開されています。
映画界を揺るした大事件は、明治生まれ(黒澤監督は明治43年生まれ)と、昭和一桁生まれ(勝さんは昭和6年生まれ)、制作者と演者、超がつく大物同士の対立として現在もさまざまな憶測も含めて語り継がれています。
参照 : 昭和54年7月21日付の毎日新聞朝刊
文 / 高木圭介
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